9.11テロをめぐる面妖な話
昨年の9.11事件以来、2つの論調が保守系論壇誌上を賑わせている。一つは「テロの背景は何か」を探り、対米追従の日本外交に疑問を投げかけるもの。そしてもう一つが、「テロリストの弁明は聞かない」と一方的に断罪し、「テロと戦うため.に日米関係を強化せよ」と呼びかけるものだ。
後者の論調の典型例としては『正論』(平成14年3月号)に掲載された、西尾幹二氏の「保守派の反米主義に異議あり」と、田久保忠衛氏の「されど反米は国益にならず」の二論文がある。
両氏の論文に共通しているのは、このテロはどのような根拠に基づいて語られているのか。まず田久保氏は「テロを否定するか肯定するか」は「自由と民主主義に普遍的価値を認めるか、認めないかだ」、という単純な論理で片付けてしまっている。だがこれでは、ブッシュ大統領の「テロリストは米国の自由と民主主義が憎いのだ」という理届と変わらないではないか。自分の目で確かめ、自分の頭で考えたのか。19人もの若者たちが、身を賭して訴えたかったことは何だったのか、という視点が欠落している。
彼らは決して自由や民主主義を憎んだのではなく、パレスチナ国家の独立と、サウジアラビアからの米軍撤退の2点を要求したのである。これらはイスラム・アラブの草の根レベルの民衆に共有された、ごく当然の要求であり、逆にいえば、この2つの問題が国際社会できちんと認知され、公正な判断が下されれば、人々が絶望して過激な行動をとることもないのだ。
確かに、田久保氏のいう「この日本の惨状を軽視して反米を叫ぶなら、その前に米国から見放されたときの生き方を準備しておく方が賢明だろう」という意見は正しい。正しいが、つまり同氏には「見放されたときの生き方」を模索する気概がないのである。
西尾氏もまた、テロをただ直線的に「卑劣」なものとし、それが生まれた背景を考えないばかりか、「イスラム過激派は近代国家を確立できない落伍者である」などと断言している
だが、タリバン政権やパレスチナを国家と認めなかったのは欧米諸国である。国家を持たないことを、彼らを軽んじる根拠にしている時点で、欧米が押しつけてきた国際秩序から一歩も抜け出せない、敗北した論理ではないだろうか。
「今回のテロリストのごときは、わが近代日本史になんの関係もないではないか!」などと語気を荒げて、かつての日本を米国に匹敵する国家として祭り上げ、アラブやかつてのアジア諸国が英米に対して決起した行動を軽んじる。これは、日本人の自尊心を煽り、快感指数を上げる以外に何の意味もなさない、夜郎自大な言説である。
両氏とも、テロや反米感情に対して高所から批判するだけで、行動する気概が全く見受けられないのだ。
かつて石川啄木は「われは知る、テロリストのかなしき心を・…・言葉とおこなひを分ちがたきただひとつの心を奪われたる言葉のかはりにおこなひをもて語らむとすそ心をわれとわがからだを敵に螂(な)げつくる心を」(『ココアのひと匙』)と詠ったが、私には、理不尽なことに行動せざるを得ない「テロリストの心」のほうが、牽強付会の説を振り回すだけの「口舌の徒」より、はるかに正しいものと思えるのだが…。(木村三浩)